校区の紹介

【校区の紹介】

宮里区字の発祥は按司時代と言われる。宮里の名称は、高い丘から見下ろすという意味の御里→見里→宮里になったと言われる。昭和41年の県立中部病院の開院により、赤道・宮里区の土地区画整理事業が行われた。それに伴い、人口増で都市化が急速に進んでいる。

江洲区江洲城址の麓に中原小学校がある。宮里との境にそびえる江洲城址は、今からおよそ560年前の尚巴志の時代に築かれたという。獅子舞と江洲城のアカマター伝説が文化財として知られている。江洲城址の中腹にある江洲按司とその妹の墓には、清明祭には毎年必ずアカマターが姿を見せるといわれている。

高江洲区:高江洲は市内でも歴史が古く、集落は14世紀頃に形成されたという。昭和21年に前原、昭和48年に志林川(尻川)が分離し現在は小さな行政区となっている。人口の8割以上が血族関係にあり、区民の融和は非常に深く、さとうきびや園芸などの農業でユイマール精神が旺盛である。

豊原区市の南側に位置し、中城湾沿いに広がる肥沃な農業地帯である。農業技術は高く評価され、豊原ナスは出荷高・品質とも高く評価されている。トマト、オクラなどの栽培も盛んである。構造改善センター(公民館)を中心に地域の結束力が強く、各種行事も盛んである。また、前原高校創立の地でもあり、記念碑が高中の校門前30メートルにある。

塩屋区通称「下原マースヤー」といわれ県内でも肥沃な農地が広がる。海に近く、製塩業が盛んだったことからつけられた地名である。昭和16年、上江洲区から行政分離し、現在の塩屋区が誕生した。進取に富んだ区民生は今も受け継がれ、教育界、政界などで排出した人材が育った。

川田区1941年(昭和16年)に太田から分離した。天馬川(テンマンガーラ)水を使っての稲作が盛んだったことから「川田」と名付けられたと言われている。1958年に経済連製糖工場が開業され、それに伴って地域の活性がなされてきた。トマト作りは市内でも有名であり菊栽培も多くなっている。喜歌劇「馬山川」(バザンガー)が継承されている。

前原区昔、首里や那覇辺りから下って来た人々が「前原屋取」を形成、肥沃で平坦な農地に恵まれ、サトウキビ生産は戦前から沖縄一と言われまた稲作も盛んであった。終戦直後は避難民の収容所となり、人口が膨れあがり前原市が誕生した。前原地区、前原警察署、前原高校等の名称はここからきている。史跡トウルガマーがある。昭和21年に高江洲から分離。